鈴木雅明

地中海に面したアルジェは、港の後ろに海沿いの大通りがあり、その背後にフランス植民地時代からの建物が並ぶ旧市街が広がる。背景には緑の小高い丘が連なり、金持ちや外国人の住居、大使館などが点在する。 「異邦人」に描かれているのは、古くからある旧市街で昔からの街並みが今もほとんど変わっていない。 だから、衝動的な殺人を犯し死刑判決を受ける主人公ムルソーが住んでいたアパルトマン、勤務していた港近くの海運会社事務所、女友達マリイと出会った海水浴場などを、現実に存在するものとして見ることができる。 「異邦人」は、実在する死刑囚ムルソー自らが綴った自伝ではないかと思わせるような、心象風景の詳細かつ繊細な描写が凄い。だから、ムルソーが”生きていた”ころと変わらないアルジェの街でこの小説を読んでいると、自分がムルソーと同じアパルトマンに住む隣人であるような生々しさを感じるのだ。 小説というものは、異なる場所で読むことによって、内容がまるで違う印象を受けるし、理解の仕方も変化する。 イラクの首都バグダッド。チグリス川を見下ろすラシド・ホテルで平凡社の東洋文庫「アラビアン・ナイト」を読む。語り部シャハラザードの声が確かに聞こえる。 ジョン・スタインベックが愛犬とアメリカを旅行したエッセー「チャーリーとの旅」をアメリカの安モーテルのベッドで読む。ノーベル賞作家が「アメリカは漠としすぎている」と耳元でぼやく。 今、日本人が東京で読むとしたら、村上春樹の「1Q84」ではなくて、ジョージ・オーウェルの「1984年」だろう。オーウェルが描いた暗い未来の管理社会と現実の管理社会を自虐的に比較できるからだ。